八咫烏について

八咫烏(やたがらす)について

日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている「八咫烏」は神武東征の折、熊野から大和まで道案内をしたといわれる烏であり、熊野の神様のお使いとされています。
延喜式に「三足烏 日之精也。白兎 月之精也」と記され、朝廷の儀式用装束や祭具に、また日本各地の祭では鉾や的に太陽と烏、月と兎が描かれているように太陽の中に住む霊力を持つ鳥が「八咫烏」です。八咫烏の咫(あた)は寸や尺といった長さを表す単位の一つですが、八百万が「たくさん」を意味するのと同様、八咫は「大きい」を意味しています。
当社では礼殿左手の御縣彦社(みあがたひこしゃ)にてお祀りされ、導きの神様・交通安全の神様として崇敬を集めています。

八咫烏とサッカー

サッカーを日本に紹介しその普及に大きく貢献した人物で中村覚之助(なかむらかくのすけ)(明治11年~明治39年1878~1906)という方がおられました。
師範学校を卒業後、いったん小学校の教師になるも退職し、23才の時に東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学しました。
4年生の時に英国の「アッソシェーションフットボール」を翻訳・編纂して、ア式蹴球部を創設し、これが日本で最初のア式フットボール(現在のサッカー)のチームであると言われています。
東京の大塚にあった雑木雑草に埋め尽くされていた新運動場の予定地を部員たちと共に整地に努め、ゴールを建てて練習を開始し、27才の時には横浜の外国人クラブに出向き、日本で最初の対外試合を行いました。
その状況が新聞で詳しく報道され、全国の中学校から蹴球指導の依頼が殺到。部員は各地の学校へ指導に出かけたと言われています。
同年、東京高等師範学校を卒業し、翌年、清国山東省南師範学校へ国から派遣されましたが、帰国途中の船中で発病し、29才の若さで急逝しました。
この中村覚之助の出身地が那智勝浦町の浜の宮です。
日本サッカー協会のシンボルマークは日名子実三(ひなごじつぞう)氏のデザインによるものですが、その図案の発案者は東京高等師範学校の内野台嶺(うちのたいれい)氏を中心とする人たちであり、内野台嶺氏は中村覚之助の後輩にあたります。

烏牛王神符(からすごおうしんぷ)(牛王神璽(ごおうしんじ))

俗におからすさん、または千羽烏とも申しているこの神符は熊野詣の人々がその参詣の印として受け帰り、家々の神棚や入口、蔵の中などに奉斎するもので、古来、那智御瀧の秘所の名水を以て正月二日の未明に神秘行事を修して摺り上げ、宮中に二千枚を献じたのでありますが、尚今もこれを伝えています。
正月未明、御瀧の秘所の若水を汲み上げ、第四殿にて奉安し、二日、午前五時より牛王神璽摺初式として、先日汲み上げた若水を以て、牛王神璽の摺り初めを行います。
二日から七日まで、午後四時より牛王神璽祭が連日斎行されます。牛王神璽の御神威を高める為だけに行われています。
また、八日には飛瀧神社にて御本社同様、牛王神璽祭が行われ、御瀧の御神霊を受けることにより牛王神璽の御神威は極点に達し、この神事を以て満願と至ります。
こちらは、悪魔退散、結(むすび)と熊野権現の信仰を今日尚伝えて居るものの一つであります。古書にもこの牛王の数々の霊験が伝わり、中でも起請文に用いられたことは余りにも有名であり、全国にこの信仰が強く残っています。これは信仰が現実の生活に結びついた最も顕著な例です。
一般的には忠臣蔵として知られる元禄赤穂事件でも起請文として重要な役割を担いました。
大石良雄(内蔵介)が仇討の意志を同志に確認するため、事前に作成提出させていた血判を返して回り、これを拒否して仇討の意志を口にしたものだけを同志として認めました。
これが神文返しとよばれ、これにより討ち入りが四十七人に選定されました。
この時に血判、起請文として用いられたのが当社の烏牛王神符であります。

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